大徳寺 龍源院 一枝坦

北九州の門司港から夕方出港し、翌早朝に大阪南港に到着するフェリーがあります。1990年代、2等船室の乗船費は確か3,000円台。学生にとってこの金額で福岡から関西まで行けることは大変魅力的で、週末を利用して大阪や京都、神戸に建築を見に行っていました。

今日は、その頃に体験した京都大徳寺龍源院の庭について、書いてみます。

大徳寺 龍源院。

門をくぐり、路地のようなアプローチに導かれて進んでいきます。玄関を上がり縁を進むと左手に阿吽の石庭。こぢんまりとした枯山水ですが、その流れに沿って進みます。

すると、初めは軒に切り取られつつ、次第に大きく眼前に広がるのが方丈前庭。別名一枝坦と呼ばれる龍源院のメインの石庭です。

正面に座った私は、しばらく圧倒されていました。それは非常に心地よい時間で、ここでいつまででも見ていたい、と思ったことを覚えています。

塀と生垣によって、庭は矩形に領域を規定されています。そしてその領域は、一つの「世界」を出現させています。

外界と区切られ、驚くべき高い解像度で埋め尽くされた世界。

解像度を決めている主役は白い砂利です。それは敷き詰められていて、竹箒で箒目と呼ばれる文様をつけられています。それら一粒一粒が太陽光により陰影を帯びグラデーションをなしていて、高解像度&グラデーションの世界が視界一面に広がるのです。

とても美しかった。

この美しさは何がもたらしているのでしょう。

まず、白い砂利の箒目。これはひとつひとつの砂利の粒の大きさ、密度、摩擦係数といった物的属性と、竹箒の幅及び竹のピッチ。大きくはこの2要素によって凸凹の度合いや形状が決定します。

そして、白い砂利の白さと表面の滑らかさ、太陽光の当たり方により日々異なる陰影を見せるのでしょう。

またこの箒目は、日々人の手で整えられています。数百年の間、日々再現され続けてきたということになります。
人が変わり世代が変わっても再現可能ということ。つまりこの形には、引き継ぐことが可能な秩序が存在しています。

その秩序がどのようなものであるか、見る者がダイレクトに感じたり言語化したりすることはありません。

しかし、脳の潜在的な部分はそれを感じ取っているのではないか。
そしてその結果、「ここにしかない美しさ」を体感することにつながっているのではないか。

実はこの同じ日、ある現代建築も見に行っていました。建築雑誌でそのコンセプトとともに魅力を感じ、以前から見たいと思っていた建築です。というよりも、どちらかといえばこの建築を見る方が主目的だったのでした。

けれどその体験は、心が大きく動かされるものではありませんでした。
コンセプトや環境に対する答え方について共感するし、よく理解もできます。ネガティブな感想があったわけでは全くありません。

しかし、心の動き方が異なっていました。龍源院の石庭の場合、そのすばらしさを心で感じたのに対し現代建築の方は頭で感じた、と書くと大雑把すぎるのですが、大きくはそういうことです。

もちろん、片や数百年という時を超えてあり続ける庭、片や20年と経っていない現代建築。背景が違いすぎますし、比較することにあまり意味はありません。

しかし、心で感じることと頭で感じることの違いが何によってもたらされるのか、ということは私にとってとても重要な問いになりました。

そして今もその問いを抱き続けています。

最後まで長文におつきあいくださり、ありがとうございます!

都留理子

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